敗北者のブログ

長年生きて来たぢぢぃの独り言

どうもです。




袖さえも触れ合ってはいないけど、こうしてこのサイトで、こんな些細な形だけど繋がれた事を多生の縁だとしたら、そんな仲でも大切にしたいと思ってしまうのは、単に私が気弱なヘタレだからなのかも知れません。

ヘタレだからこそ、目に見えぬ知り合いの事を心配してしまうんでしょうね。


ここで私が読者登録をしている数名の方々の日々を綴ったブログを読ませて頂いては、あっ、そんな事があったんだ、楽しかったんだろうな。

とか、それは多分、悔しかったんだろうな。

とか、自分勝手に想像を膨らませては、人様の生きざまを身勝手な事に身近に感じていて。

けど、だからと言って、その人様の出来事や心配事に対して何らかの代償を支払えるのかと問われてしまえば、残念ながらその応えはノーでしかない薄情者なんです。


その人達の人となりを、この不定期で一方通行な僅かな情報源しかない、ごくごく希薄な繋がりでしかないからこそなのか、その人様に思いを馳せてしまう一時があるのだと思います。


身近にいる友人知人であるならば、そこには日頃の付き合いや、それまでに培って来た互いの情報や感情が

雑多に沸き上がってくる心配などの感情を具体的な想像に結び着けられるので、あの人ならば、あいつだったらと自分の中の心の置き所が定められ、心配の色や形を把握できる。


けど、この不安定で希薄?な想像頼りの繋がりは、お相手の顔形、声、年齢、お住まいなどの情報は当然ながら知り得えませんが、ここに書き記される文章や物語には、身元を隠しているからこその本音や本心が吐き出されているように思えるんです。


時として、計らずも目に止まったブログの中に思わず心を動かされてしまうような、なにげない、特に文学的でもなければ叙情的な表現もされてはいない、ごく普通の日常を綴っただけの文章だけれど。

そこには具体的な人物像が見えない。仕草や表情、言葉尻の強弱や瞬間瞬間の感情の起伏が伴わない、凛として自分と向き合った姿勢から打ち出される文章には、その人の真にある姿が表現されているように感じてしまうんです。

そんな、出会いとも呼びがたい自分だけの一方通行的な触れ合いって大切にしたいな。って、自分勝手で自己満足的な考え方をしている今日この頃です。



ん?私は何が言いたかったんでしょうね?

そんな分けで一方的なお知り合いの皆様のお便り?ブログを自分勝手に楽しみにして折りまするん🎵

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